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裏庭~梨木 香歩・著 新潮文庫 を読んで [書棚からの言葉]

書棚からの言葉シリーズが続いています・・・(笑)

「裏庭」は数年前に買ってずっと手元に置いてある本です。
どうしてか、久しぶりに読み返したくなりました。

このおはなしは、すでに人が住まなくなって久しいバーンズ屋敷に
代々伝わる「裏庭」に通じる異世界を主人公・照美が魂の冒険をする物語です。
その数々の冒険は、読む側の心に迫ってくるもので、照美の心の痛みは
そのまま、読み手の心への問いかけとなっていきます。

照美がひとつひとつを乗り越えて進んでいく先に、照美の両親、亡くなった
双子の弟の純、バーンズ屋敷に住んでいた姉妹のレイチェルとレベッカ、
その友人の丈治と夏夜、妙など、大人たちの心の世界が幾重にも紡がれていきます。
その描写の見事さと、繊細さにどんどん物語に引き込まれていきました。

裏庭は決して簡単に読める物語ではなく、ひとつひとつにじっくりと向き合い、
その言葉の意味を感じながらゆっくりと読み進めました。
時には心が痛むシーンもあり、エネルギーが必要なときもあります。
それでも、最後まで読み終わった後は、なんともいえなく胸がいっぱいになります。
照美と一緒にひとつの冒険をやり終えたような、ほっとしたような安堵感・・・
なんだかじ~んと心が癒されたように思えるのです。


「裏庭」を読むときには、気軽に手に取る感覚ではなく、「さあ、読むぞ・・・」
というちょっとした気合のようなものを持って読み始めます。
何度も何度も読み返してしまうのは、その時々の自分の状況によって、物語から
感じ取れる世界観、意味合いが毎回違ってくるからです。
書いてある文章は同じなのに、毎回気づきがあります。
物語から発せられるメッセージが、私にとって必要な部分が、鮮やかに浮かんできます。

「何か」を見つけたいとき、私は照美と一緒に「裏庭」を旅します。
そして、自分にとっての「裏庭」とはなんだろうと考えるのです。

今回、本書の中で心に残った言葉をしるしてみたいと思います。

レイチェルがマーサと話しているシーンです。

「養子たちとは言え、あなたと私はいい家庭(ホーム)を
 作ってきましたね。」


「日本ではねえ、マーサ。家庭って、家の庭って書くんだよ。
 フラット暮らしの庭のない家でも、日本の家庭にはそれぞれ、
 その名の中に庭を持っている。
 さしずめ、その家の主婦が庭師ってとこかねえ。」

「なるほどねえ・・・庭は植物の一つ一つが造る、生活は家族の
 一人一人が造るってことですかねえ。深い、重みのあることばです。」





物語の中では、照美の家族、照美の母の家族、レイチェルとレベッカの家族・・
様々な家族の絆が問われていきます。
人が生まれて、一番最初に人間関係を築いていくのが家庭です。
ですが、この家族、家庭というのが一番難しいのかもしれません。

家庭の中で心の傷を負った照美、母との関係で葛藤がある照美の母、そして
レイチェルとレベッカのそれぞれも家庭の中で心に傷を負っています。
物語の中でそれをなぞりながら、みんなはそれぞれ、自分の「裏庭」を探す
旅をしていきます。

家族がいて一緒に暮らしていても、たとえ一人暮らしでも、みんな、心に
自分の「裏庭」を持っていて、それをはぐくんでいくのは、庭師である
自分なのだと、物語を読んでいて思うのです。

庭師が手入れを怠ったり、下草や木々の枝を生え放題にしたら、庭は
少しずつ荒れていきます。
心もおんなじで、水と肥料をあげて、光が届くように枝を整えてあげる。
すると、そこに訪れる虫や鳥たちが生き生きと楽しそうにしてくれる。
心をかけた分だけ、庭は輝き、豊かになってゆきます。

でも、時として古くなって倒れた木から新たな芽吹きがあります。


/ ethermoon


自分の心も庭のように育てていければいい。

その「裏庭」は、いつしか外のもっと広い世界へ、
他の「裏庭」とつながっていく場所だから・・・

(写真はおかりしたものです。)



空を見あげて~ハッピーライフより [書棚からの言葉]

空を見あげて  (ハッピーライフ 廣瀬 裕子・著 大和書房より)


Sky / kabeto jamaica


まいにち、何度も空を見る。

朝おきて窓をあけたとき。

洗濯ものを干しているとき。 歩きながら。

家に向かう帰り道。 買い物に行くとき。 電車のなか。

ふと、立ち止まったとき。 そんなとき。

忙しくても、空を見ていると

大丈夫という気持ちになる。

元気が出てくる。 なんとなくやる気がでる。

その日の天気。 空模様。

どんな雲があって、どんな色をしていて、


Sky / Stirling Council


夕焼けはどうだったか。

そういうことを知らない。

そういうことを気にしない。

そんな暮らしはしたくない。

まいにちの中に空があること。 見あげればそこにあること。

それをわかっているだけで、暮らしていくこと、生きていくことは、

いいことのように思う。

だから、今日も空を見あげる。

空の下、自分がいることを確認するため。

暮らしていく力をもらうため。



Sky / Anadi.

写真はおかりしたものです。

===================

巣立った若鳥が元気に飛び交い、

木立から吹く風が心地いい。

今日はそんな日でした。

空を見あげましょう!

コローナの松の木~プラテーロとわたし 秋・冬より [書棚からの言葉]

コローナの松の木   (プラテーロとわたし 秋・冬 J・R・ヒメネス著 フォア文庫より)


どこで立ち止まっても、

そこが、私にはコローナの松の木の下であるような

気がするんだよ、プラテーロ。

私の行き着くところはどこであろうともー

それが都会であろうと、

愛情であろうと、

栄光であろうともー

白い雲の浮かぶ大きな青空の下に枝を広げた、

あの豊かなみどりの木のもとに着くように思える。

その木は私にとって、

私の苦しい夢の荒海に浮かぶ丸い灯台だ。

河口の海に嵐が吹き荒れるとき、

モゲールの水夫たちにとってそうであるように。

その木は、乞食たちがサンルカールへ行くときの、

あの赤っぽくけわしい坂道の上にあって、

私の苦悩の日々にも、

ゆるぎないいただきを見せている。

その思い出の木の下に憩うたびに、

私は何という力強さを感じるのだろう!

その木だけは、

私が育つのにつれて成長しつづけてきたものであり、

たえずより大きくなってきた、

ただ ひとつのものなのだ。

嵐で折れ曲がったあの枝が切り取られたときには、

私は自分の手足の一部が

もぎとられてしまったかのように感じた。

そして、ときたま私が、

思いがけなく何かの痛みにおそわれたりすると、

コローナの松の木も、

同じ痛みを感じているかのように思えるのだった。

<偉大な>という言葉は、その木にぴったりするー

ちょうど、海や空や それから私の愛情にもあてはまるように。

その木陰で、

代々の人たちには何世紀にもわたり、

雲を仰ぎながら休んできた。

彼らが、

海の上で、空の下で、

私の心のふるさとで休んできたように。

私の思想がぐらついたり、

気まぐれな考えばかりが浮かんできたり、

あるいは、そこにあるものが

まぼろしのようにしか見えなかったりするようなときには、

いつでも、コローナの松の木は永遠の巨像となって、

より繁った より巨大な姿で、

ためらいがちな私の前に現れるのだった。

そして、そここそは、

人生を旅する私が、

最後にたどりつく真実にみちた永遠の地であり、

そこで安らかに休息するよう、

私に呼びかけてくれる。

150103大楠.jpg

私にとってのコローナの松の木は、散歩道の大楠です。


雨の日に~エンデの詩を [書棚からの言葉]

今日は朝から雨です。

クッキーも猫たちもすやすや おやすみ

そんな静かな朝に エンデの詩を

夢のボロ市~ミヒャエル・エンデの詩集から


失われた微笑


今日、朗らかな夢のなかで

冷たい秋の世界を歩いていて、

ぼくは、葉の落ちた木々のなかを

失われた微笑が飛んで行くのを見た。


哀愁にみちた微笑は、喪服を着て、

なかば凍りつき、死ぬほどくたびれていた。

そこでぼくは同情し尋ねた。

誰があなたを失ったのですか?


そこで微笑がささやいた。 ご覧のように、

まったくの宿無しの身、

もしも唇が見つからなれれば、

死んできえるしかないのです。


そこでぼくは、降りてくるように微笑に呼びかけ、

こうして掘り出し物を君にもってきた。

今宵ぼくは、君の口元にふたたび

微笑がうかぶの見た。


stealing a smile / Vitorio Benedetti



夢のボロ市


今日、夢のボロ市に行ってみた。

世界のはじっこにあって、いろんなものがあった。

盗まれたもの、投げ捨てられたもの、壊れたもの、

中古の、そしてまた中古の夢の品。

空飛ぶ絨毯はイガの穴だらけ、

でこぼこの光輪は、星とおさげ髪、

鍵のない空中楼閣は、錆でボロボロ、

昔かわいがっていた人形も、今は首がない・・・


そして そんなガラクタたちのなかに、突然、

ぼくらの愛の、美しい夢も発見したのだ。

その黄金色に曇っていて、夢は壊れていたけれども、

黄金のようにすばらしく、そして あいかわらず美しかった。

できればそれを君に返したいと思って、

あおざめた男に尋ねてみた。

にやりと歯のない口をあけ、男はぼくを見つめ、咳ばらいをして、

恥知らずな値段をふっかけてきた。


なるほどそれだけの価値はある。 けれどもぼくは交渉した。

敵は黙っていた、が、折れなかった。

だから夢は買い戻せなかった。

風向きが良くないんだ。 もうそんなに豊かじゃないんだ。

結局すごすご手ぶらで引き返したが、

ひとつ知りたいことがあった。

あれは贈られたのか、盗まれたのか、投げ捨てられたのか?

ねえ、君 教えて どうやってあの夢があそこに紛れ込んだのか?


Antique Market, Paris / wiccahwang



空飛ぶ夢

・・・そして、窮屈に制限されている人生に

またもやうんざりしてしまったとき

そして地球全体が灰色の網に



・・・習慣・暴力・法の網に

国と国との境界の網に

愚かさと有刺鉄線の境に

お金の限界、制限時間に

そして自分の能力の限界に・・・

すっぽり覆われていると思えて

君が網の中で身動きできず途方にくれている時



・・・そして君が、またもや大小さまざまの

格子にぶつかって傷つきながら

けっしてそこから抜け出せず

窮屈な場所の囚人であり続けるのだと思い知るとき

その時君は、隅っこにうずくまり

昔ながらの夢を見る


さあ、腕を大きく広げて 深呼吸!

君は道路や家を後にして舞い上がり

夢のように鳥となり空をとぶ。

存在していること自体幸せなのだ!

下に見える境界に心を悩ませることもなく

君はけっして戻ろうとは思わない



すべてはこんなに簡単だ。

君は不思議とは思わないだろう

そして 夢のなかで君には分かる
 
 
そして 君は胸に手を当てる。

どうして忘れられ、どうして信じられていないのか。

ひとはいつも鳥のように自由で、

ほんとうは飛ぶことができるのに。


Feather in the Sky / cogdogblog


写真はすべておかりしたものです。

センス・オブ・ワンダー~神秘さや不思議さに目を見はる感性 [書棚からの言葉]

レイチェル・カーソン著の「センス・オブ・ワンダー」という本を読みました。
レイチェル・カーソンが幼い甥のロジャーとともに様々な自然と触れ合いながら
感性をつちかっていく方法をみずみずしい美しい文章でつづっています。

この本の訳の上遠恵子さんは「センス・オブ・ワンダー」という言葉を
「神秘さや不思議さに目を見はる感性」と訳しています。
そして本の中にはこう記されています。

「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、
 驚きと感激にみちあふれています。
 残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、
 美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく
 失ってしまいます。
 
 もしもわたしが、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける
 力をもっているとしたら、世界中の子供に、生涯消えることのない、
 『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性』
 を授けてほしいとたのむでしょう。」

「センス・オブ・ワンダーを探して 阿川佐知子・福岡伸一・著 大和書房」
の本の中では、阿川さんと科学者の福岡さんが自分の子供の頃のセンス・オブ・ワンダーを
見つめなおす対談をしています。
自分たちが子供の頃に体験したこと、感動したことが大人になってから
その人自身を支え、生かしていくと本の中では繰り返し語られていました。

私は、私自身のセンス・オブ・ワンダーはなんだろうと考えてみました。

小学生のころ、まだ明けていない早朝の空気の中、霧がかかった朝もやの中を
散歩して、朝の鳥の声を聞いていました。
初夏によくはカッコウの声が、夕方から夜はホトトギスのさえずりが子守唄
のように聞こえました。

<訂正>
子守唄で聞いていたのはホトトギスの鳴き声でした。
訂正させていただきます。すみません!

☆ホトトギスの鳴き声が聞けます。
サントリー 日本の鳥百科さんのサイト
http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/60.html


キジバトはよく電線にとまって私を眺めていて、『デデッポーデデッポー』と
鳴くので、そのまんま「ででっぽ」という名をつけて友達のような気持ちでいました。

太陽が昇ってきたら、それは霧の中で銀のおぼんのようでした。
やがて、霧が晴れてきて青い空が広がり、木々や葉に朝つゆがキラキラと光るのを
見ました。その朝つゆを様々な虫やカタツムリがうれしそうに飲んでいるのを
見ました。

祖父母の家に泊まった朝は、まだみんな眠っているうちにこっそりと家を抜け出し、
そばにあった森林公園の中を歩きました。しんと静まり返った空気の中を自分と木々と
鳥と虫しかいないのを感じて歩きました。
雪の日は、膝まで雪に埋もれながら、木々のこずえをタンタンと叩くアカゲラに
会いに行きました。


Fulvous-breasted Woodpecker (Dendrocopos macei) / Lip Kee

アカゲラはこんな鳥です。
おかりした写真です。

学校帰りは行き着けのアリの巣にしゃがんで、給食のパンをアリが運べる大きさに
丸めてあげて、巣に運ぶ様子をずーっとながめていました。

動物と話ができたらいいなと思っていて、『ドリトル先生』や『ニルスのふしぎな旅』という
童話が好きでした。動物と話せるなら、ニルスのように小人になってもいいなとも
思っていました。

ナルニア国物語が好きで、本当にナルニアに行けると思って、クローゼットに
入ってみたり、別のおはなしにあったように、抜けた歯をねずみが取りにくると
思って用意をして、寝ずに待ってみたりもしました。

毎日、自然や本の中の面白いこと、不思議なことを見つけることにワクワクしながら
すごしていたように思います。

今思うと、私の心の根っこのところは、子供頃に感じていたセンス・オブ・ワンダーが
ちゃんと息づいていて、今私を形作っているのだと知りました。
大人になったけれど、草木や虫、鳥に夢中だし、動物と話してるし、想像を膨らませて
にやにやしています。←冷静に見ると変な人・・・

すごーく変人かもなのですが、そういう感性が今も自分を支えてくれていると
知るのはうれしくたまらなくなります。

最近のセンス・オブ・ワンダー。

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散歩道の大楠が自然の藤棚になっていました!

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ここに自然の藤が咲いているのは前から知っていましたが、こんなに見事に咲いたのは
今年が初めてです。
長い間雨が続き、久しぶりにここを歩いたら大楠と藤の花のコントラストの美しさに
言葉を失いました・・・感動しました。

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野生の藤の花は小ぶりで可憐です。

毎日見ている散歩道にも、センス・オブ・ワンダーは満ちています。

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そして、自然の藤棚は探すといろんなところにもありました。

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これは、磐田市の熊野(ゆや)の長藤です。

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国と県指定の天然記念物で、樹齢300~800年にもなるという5本の
長藤を大切に守り続けてきたそうです。
それはそれは見事でした。

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こんなに長いんですよ!

15429長藤とクマバチ.JPG
長藤にはたくさんのクマバチやミツバチが蜜を吸いに来ていました。
長藤祭りのスタッフさんは、観光客さんたちに「クマバチはおとなしくて刺さないので
心配ないです。」と笑顔で声をかけてくださっていてうれしかったです。

長藤もきれいでしたが、クマバチに夢中になってなかなか出てこない私に
家族があきれていました(笑)

世界はおもしろいことや不思議に満ちています。

センス・オブ・ワンダーの中の最後の言葉です。

「自然にふれるという終わりのないよろこびは、けっして科学者だけのもの
 ではありません。
 大地と海と空、そして、そこに住む驚きに満ちた生命の輝きのもとに
 身をおくすべての人が手に入れられるものなのです。」


あなたにとってのセンス・オブ・ワンダーはなんですか?


心の泉2 [書棚からの言葉]

<千尋のアニマルコミュニケーションサイトからのお知らせ>

お知らせをTOPにさせていただきます。

☆セッションの受付を再開いたします。
お休みを延長させていただき、大変ご迷惑をおかけいたしました。
ご心配をいただいた皆様、本当にどうもありがとうございました。
体調を崩していたおばあちゃん猫は、目がかなり見えなくなってきていますが、
食欲が出てきて元気に過ごしています。見えなくても日常生活はちゃんと
出来ていて動物はすごいな~と思います!励まされました。

セッションの受付を再開いたします。
また頑張りますので、よろしくお願いいたします。


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先日、夢で見た「心の泉」で自分を大切にすることついて書きました。

今読んでいる本の中に、心を動かされる言葉を見つけました。

「-アメリカ人は自分のことがあまり好きではないようだ。
 でも、仏の心をもてば、自分を愛さずにはいられませんよ。

        米国訪問時、弟子によって伝えられたダライ・ラマの言葉

       ~人生という名の先生 ダニエル・ゴットリープ著・講談社出版より」



すごく温かみを感じ、心にじ~んと響く言葉でした。
この言葉を弟子に話して、にこっと笑ったダライラマ法王の笑顔が目に浮かぶようでした。

この言葉から届く仏の心とは、慈悲のことではないかと思います。

慈悲について、先日ご紹介させていただいた「猫のさとり マガジン・マガジン出版」で
著者の岩崎るりはさんはこう書いています。

「1989年にノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ14世は、その著書、
『ダライ・ラマ 般若心経入門』の中で、こう述べています。

『純粋な慈悲とは、智慧と親愛の両方を持ったものでなければならない。
この場合の智慧とは、他者の苦しみの本性を理解するということであり、
親愛とは、他の生き物に対する親しみと共感をもつということである。』

人間に寄り添う猫という小さな動物を慈しみ愛すること。
そうすれば、もっと安らかな気持ちになれるのだ。
ダライ・ラマはそう言っているように思えてなりません。

最後にもう一つ、ダライ・ラマの言葉を、

『慈悲とはある種の願望であり、他の人々を苦しみから解放したい
という心の状態である』

これこそが、この本にこめた私の願いです。」



仏の心で自分を見つめるということは、自分自身の苦しみの本性を
理解し、親愛~自分への親しみと共感を持って自分の心を抱くということ
なのだと思います。

慈悲という言葉を聞いて、私の心に浮かぶのは蓮の花です。
仏教的なシンボルとして扱われているからかもしれませんが、
蓮の花がふわっと開いているのを手のひらに包んでいる情景を
思い浮かべると、この慈悲という言葉の意味が、あたたかみを
もって広がってくるのを感じます。
それは、心の泉の源泉のようなものなのかもしれません。

蓮の花を扱うように、自分の心と他者、自然や動物たちを眺めることが
できれば、己の心は平和で穏やかでいられるのだろうな・・と思いました。

まずは、仏の心で自分を包んであげること。
それが、心の泉をきらきらと流し続けていけることにつながってゆきますように。


DSCT0666 / gtknj

おかりした写真です。





「猫のさとり」から~今を生きる智慧 [書棚からの言葉]

先月、お友達から一冊の本をプレゼントしていただきました。

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「猫のさとり 色即是空ー幸せを感じる智慧 岩崎るりは・著
                   マガジン・マガジン出版」



残念ながらもう絶版になってしまった本だそうですが、友達は古書店などで
集めていては、猫を大切に思っている方にプレゼントしているんだそうです。

この本の魅力とメッセージの大切さを文章で表現するのは、とても難しく
感じました。
丸ごと一冊読んでいただいて初めて、それも時間をかけてじんわりと心に
広がってくるあったかさというか、奥行きを感じる世界の広さを感じられる
本なんです。

各ページには、「悟りの猫たち」という題で自然や街角の中にいる猫の
ありのままの姿が撮影された写真が載せられています。
傍らに般若心経が一節ずつ書かれていて、著者の岩崎さんが猫の視点で
その一節を解説しています。

心に残った一節を引用させていただきます。

===========================
 
受想行識も またかくのごとし


目に見える万物でさえ空なのですから、まして心ほど
移ろいやすいものはありません。

五感や、精神作用や、意思行動など、精神界にあるすべてのものは、
あたかも猫の目のように移ろい変わります。

猫は楽しいことに目を丸くしたかと思えば、じきに飽きて毛づくろいを
始めます。
甘えたかと思えば、次の瞬間には目をつり上げて睨んできます。

このように、五感も、精神作用も、意思行動も、意識も、移ろい変わる
空なのです。

心は、まさしく空なのです。

たとえ今日に心病んだとしても、明日には必ず楽しい一瞬がやってきます。
心が空なればこそ、明日には必ず幸せな一瞬がめぐってくるのです。

===========================

この一節は、今、病気の動物さんと向き合っている飼い主さんにお届けしたくて
ご紹介しました。

私たちは、重い病を患っている動物さんは、いつもいつもずっと苦しいのではないか、
この先の病気の進行を考えて、もっと苦しむのではないか・・・と不安で胸が
つぶれそうになってしまいます・・
私も先代犬ががんの宣告を受けたとき、猫が慢性腎不全の末期で闘病が始まったとき、
そう感じました。

ところが、そうではありませんでした。
がんの宣告を受けて、がんの脚を断脚してからの愛犬の余命は3ヶ月でしたが、
その後、毎日車椅子での散歩を楽しみ、痛みも苦しみもほとんどなく、寝付いたのは
たった5日間でした。
最後の一日は、脳に転移したがんのためにけいれんが起きてしまいましたが、
発作の合間は穏やかで、意識もはっきりしていて、牛乳を美味しそうにのんだり、
最後のときまで、言葉や気持ちをいっぱい交し合うことができました。
本当に苦しくて大変だったのは、彼女がぎりぎりまで発作を食い止めてくれていた
見送るまでのたった一日でした。
その一日でさえ、愛犬は愛と勇気をもって私たちに答えてくれました。

猫たちも、点滴や通院などの闘病生活の間も、できるだけ最後のほうまで自分で
食べてくれて、もう起き上がれないときも目力が生き生きしていて、体のケアに
うれしそうだったり気持ちよさそうだったり、こっちが励まされてばっかりでした
(^^)

病気であっても、亡くなる間近であっても、彼らは楽しいことに目を丸くしたり、
甘えたり、時にはムッとして気を悪くして、くるくると気持ちが変化して、
元気なときと心はちっとも変わりませんでした。

そのとき、変わってしまっていたのは私の不安な心だったんだな、と思いました。

「このように、五感も、精神作用も、意思行動も、意識も、移ろい変わる 空なのです。
心は、まさしく空なのです。
たとえ今日に心病んだとしても、明日には必ず楽しい一瞬がやってきます。
心が空なればこそ、明日には必ず幸せな一瞬がめぐってくるのです。」



まさにこの通りだったのです。
確かに闘病は大変ではありましたが、彼らが見せてくれた明るさ、楽しい瞬間、
毎日の中でちょっと笑ってしまうしぐさのほうが多かったと思います。
それは、私を今でも笑顔にしてくれて、幸せいっぱいの気持ちにしてくれています。

そして、本の最後には「風に乗ってきた猫」という小さなおはなしがあります。

梅の香りのする季節、ある風の強い日、岩崎さんが歩いていた足元に、まんまるく
眠った形のネコちゃんが吹き飛ばされてきました。
その猫ちゃんはそのままの形で天に召されていました。
多分、みかん畑の真ん中で、丸くなったまま永遠に眠ってしまった
猫ちゃんのようでした。
その姿はとても安らかで自然に感じられたそうです。

その猫ちゃんを見て、岩崎さんはこう書いています。

「死というのものは、悲しいものだと誰が決めたのでしょう。
不幸というものが哀れなものだと誰が決めたのでしょう。
ぜったいにそんなことはない、少なくても、猫にかぎっては、
そう決めつめるのは人間に独りよがりだと思うのです。

だって猫は、いつでもどんなときでも幸せを感じています。
けっして不幸を不幸と受け止めて悲観したり、生きることを
あきらめてはいません。

春風のフワフワニャンコも、そこに自分を温めてくれる地面がある、
その小さな幸せに目を細めたのでしょう。
そして明日には、もっと温かなぬくもりに抱っこしてもらえることを
信じて、そこで安らかな気持ちで眠りこけたのでしょう。

生れ落ちたときにすでに衰弱している子猫でも、一回でも多く息を
しようと、一生懸命に口をパクパクします。
数ヶ月しか生きられない生まれつき病気の子猫でも、一日、一時間、
一分、一秒を、走って甘えてきます。

天寿をまっとうする老猫だって、一歩でも多く歩き、一口でも
多く食べ、飼い主の声に一度でも多く応えようとするものです。

猫は死を理解していないからだ、という声も聞こえてきそうですが、
大勢の中で暮らしている猫を観察する限りではそうではないと思います。

仲間の死を何度も経験した猫は、病気、そして死という過程を、
それとなく理解しているように思います。
経験豊かな猫ほど、死にそうな猫には近寄らず、遠くからクールに
見守ります。
そして、たとえ死を理解している猫であっても、自分の死を恐れる
様子もなく、最後の一瞬まで力の限り生き抜きます。」



私はこの文章を読んで、今まで見送ってきた愛犬、愛猫たちの姿を
重ねることができました。

そして、この詩が自然と心に浮かびました。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ。

生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。

すべての声が、わたしの中で合唱している。

すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。

あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。

今日は死ぬのにもってこいの日だ。

わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。

わたしの畑は、もう耕されることはない。

わたしの家は、笑い声に満ちている。

子どもたちは、うちに帰ってきた。

そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

~今日は死ぬのにもってこいの日 
・タオス・プエブロの古老の言葉 ナンシー・ウッド・著より引用」



人も動物も、本当は自分の天寿を全うする日を魂の中で知っているのかも
しれません。
動物はそのことをずっと持ち続けて生き、人は文明の中でそれを忘れてしまい、
死に不安と恐怖を持ってしまいます。
けれど、「猫のさとり」の中で猫たちが教えてくれるように、死とは生の
中では自然な出来事であり、彼らはそれを恐れることなく、その直前でも
生の喜びを一瞬一瞬味わうことが出来るのだと、私たちに教えてくれて
いるのかもしれません。

<千尋のアニマルコミュニケーションサイトからのお知らせ>
12/21~来年の1/11まで年末年始のお休みをいただきます。
よろしくお願いいたします。


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熊田千佳慕さんの世界 [書棚からの言葉]

6月8日に主人と佐野美術館で開催されている
「プチファーブル 熊田千佳慕の世界」を観に行ってきました。

熊田さんを知ったのは、二年前に椎間板ヘルニアで療養中、動けなかった私に
お友達がお見舞いにと本を送ってくれたのがきっかけです。
昆虫撮影や観察が好きな私なら、きっと熊田さんの描かれる虫の世界が好きだろうからと
贈ってくださいました。

熊田さんは草原にうつぶせになって地面に顔を近づけて、虫の目線となり、
心をひとつにして絵を描いています。
その姿勢と、まるで今にも動き出しそうな生き生きとした虫たちの絵に感動しました。

筆先を抜いてうんと細くして、虫や動物、植物の毛を一本一本を丁寧に描いていく
細密画には、驚くほどの繊細さと、写真のようなリアルさ、生きているものへの
愛情が深く感じられます。

展覧会のお知らせに熊田さんの絵が紹介されています。
観てみてください!

☆プチファーブル
熊田千佳慕の世界

http://www.sanobi.or.jp/exhibition/kumada_chikabo/

今回の個展には72点の作品が展示されていました。
絵にはそれぞれモデルとなった虫の生態の説明と、熊田さんの言葉が添えられていて
心あたたまりました。

原画を観て驚いたのはその多彩な色使いと、明るさと鮮やかさです。

RIMG0050.JPG

その日の宝物にと、この図鑑画集を買ってきたのですが、印刷された絵の色合いはやはり
若干濃く印刷されていて、原画の美しさは、実際に観て初めてわかるものなのだと
実感しました。

熊田さんの虫や植物、生き物達への姿勢は、どこまでも優しくあたたかいです。
この本の中の言葉をいくつかご紹介させてください。

========================

心の目、心の耳、心の口

虫や花の美しさを愛することができる心の目。
虫や花の言葉がわかる心の耳。
虫や花と自然に話しかけられる心の口。

自然は美しいから美しいのではなく、
愛するからこそ美しいのだ。

Chikabo



私の絵のほぼすべては
戦後に移り住んだ横浜の三ツ沢の家で描いたもので、
自称「埴生の宿」

昼でも電気をつけなければいけない暗い部屋から、
どうしてあのプロヴァンス(フランス)のような明るい空が生まれるのかと、
来訪者は一様に首をかしげました。

それは私の心の中に、
どんなに暗くても描ける神様から授かった灯火があるからです。
そして、虫や花の美しさを愛する心の眼、
虫や花の言葉がわかる心の耳、
虫や花や自然に語りかけられる心の口を持とうと、
常に意識しているからです。

Chikabo


友人。親友。心友。(友愛)

友情をもつことは決してたやすいことではありません。
ある人と何回も会い、ながく話をしたからといって、
又、社交的であるからといって友情が育つわけではありません。

遠く離れていても 言葉はすくなくても
心のもっとも深いところで友を理解し 信頼することが友情であり友愛であります。
つまり自分のもっている心の波長が 相手の人の波長に合うことによって、
本当に友情が生れ友愛となるのです。

私は友を友人と、親友と、そしてもっと深い心の交流のある人を心友となづけて、
つきあっています。
私と虫や花とのつきあいも(花や虫はものをいわない)友愛からなりたっているのです。

Chikabo


この道

神様から許された この道を
コツコツと歩くことが好きだ。

近道を見つけたり より道をすることなく
あわてずに自分のペースを守ること。

自分に素直であれ
自然にも素直でありたい。

Chikabo

~熊田千佳慕 クマチカ先生の図鑑画集( 出版社: 求龍堂) より引用


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photo by chihiro

私も熊田さんのような心で虫や自然に向き合っていきたいです。


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<千尋のアニマルコミュニケーションサイト>

現在、通常通りセッションの受付をしています。
また、頑張りま~す!
よろしくお願いいたします。

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そばにいる人~廣瀬裕子さんの本から [書棚からの言葉]

13年くらい前、作家の廣瀬裕子さんの短くて明るい言葉に惹かれて
何冊か本を手元に置いて、何度も何度も読み返しました。

何年かたって友達にプレゼントしたらとても喜ばれました。
当時の私のように廣瀬さんの言葉が勇気付けてくれたみたいです。
そうやって友達のそばに行った本たちがありました。
今、一冊だけ手元に残して読み返しています。

「HAPPY LIFE 廣瀬裕子・著 大和出版」

今日はその中から、久々に胸を打った一文をご紹介します。

私のとってとても大切な人たちに贈ります。

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そばにいる人


同じ方向を見ている人。ちかい感覚を持っている人。

そういう人が、そばにいると気持ちが強くなれる。

がんばっているのはひとりだけじゃない。

おなじことを考えている人がほかにもいる。

そんなふうに思ってうれしくなる。

そばにいる人の力はおおきい。

なにかをするとき、そばにいる人が否定ばかりする人だったら

やる気がなくなる。心配になってくる。

だけど、やってみれば、と言ってくれる人だと

とにかくやってみよう。

そんなふうに思えてくる。

それに、もし、うまくいかなくても、

そういう人は、否定的なことはあまり言わない。


そばにいる人は、いろいろ。

ともだち。仕事仲間。すきな人。家族。

みんな、そばにいる人。

人は、知らないうちに人の影響を受けてしまう。

だから、できるだけ、気持ちが強くなれるような人、

気持ちのいい人のそばにいたい。

みんながみんな、そう、うまくはいかないかもしれない。

だけど、そう思える人たちといたい。

そう、思っていると、そのうち、そういう人たちが多くなってくる。

そして、こころ強く思いながら、

ときどき勇気をもらいながら、

おなじ時間を生きていく。



Stars / VallinKenel


~HAPPY LIFE 廣瀬裕子・著 大和出版より


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<千尋のアニマルコミュニケーションサイト>

お知らせがあります。
3月中旬~4月中旬まで宝台院さんの事務所がお休みになります。
GWもありますので、宝台院 旧アソカ幼稚園舎の対面セッション
のみを3月18日~5月31日までお休みさせていただきます。

お休みになるのは、宝台院さんの対面セッションのみです。
私自身のお仕事は平常運転で~す!
平日の公民館の対面セッション、メール、電話、スカイプセッションは
通常通り受付しています。
よろしくお願いいたします。


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笑顔の贈り物 [書棚からの言葉]

7/7(土)に友達のNさんと☆笑顔のコーチングのワークショップに参加してきました。

友達のYさんがこのワークショップのファシリテーターの資格を持っていて、
前々からお話を聞いていて楽しそうだな~と思っていました。

講師の先生のおはなしがわかりやすくて面白く、また初対面の方と
ペアを組んだり、グループを作って笑顔をテーマに話し合ったりしました。

あなたが笑顔になったエピソードを聞かせてください。

ふと笑顔になるきっかけってなんだろう?

そんな思いを分かち合えた時間でした。

最後は会場全体が笑顔いっぱいになり、とても楽しいワークショップでした。
初対面なのにお互いに心を開いて色々おはなしできて新鮮だった!と
友達も喜んでいました。

あれから笑顔について色々考えたりしていました。

そんな時、本の中に笑顔について素敵な文章があったのでご紹介します。

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心の安らぎは輝きを放ち、そこに居合わせる人々にぬくもりを与える。
私がその輝きを感じたのは、ネパールのある家族を訪れたときと、
偶然マザー・テレサに出会ったときだった。

マザーに出会ったときは、ふたりで手を握り合い、お互い女学生のように
くすくす笑った。
私もうれしくて心がウキウキし、ほとんど踊り出しそうだった。
そして、深いしわが刻まれ、細長い裂け目のような、
本物の輝きを放っている目を見た。

チベット人のおばあさんの顔。
小児科の集中治療室で世話をしていた、ボランティアのおばあさんの心。

どちらもおだやかな光を放ち、私たちみんなをそのほほ笑みで癒してくれた。

開かれた心から生まれてくるほほ笑み。
生長し花開くすべてのもの、そして実を結び、枯れ果て、
ふたたび新たな生長のための場所を与えるすべてのもの、
この生命への喜びと感謝から生まれてくるほほ笑み。

周囲のものと同じように私たちも生きているということが、
心底わかったことへの感謝から生まれてくるほほ笑み。

そうしたほほ笑みは、生命そのものへのほほ笑みであり、
意志の力では作り出せない、太陽のようなほほ笑みだ。
ほほ笑みは本来、生命が持っているものだ。
ほほ笑みを向ける場所や人、ましてやほほ笑みをふりまく人に
属しているものではない。

そんなほほ笑みは、心にわきあがってあふれ出た瞬間に、
すぐ「収穫する」ことのできる贈り物だ。
ほほ笑みが豊かにあふれているときには、それをまわりに
ふりまいても、犠牲になるものは何もない。
豊かにあるものを分かち合うことは、もっとも自然で自発的な行為だ。


~癒しのガーデニング 菜園が教えてくれた私の人生
               アーリーン・バーンスタイン・著 
                           日本教文社

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笑顔は人のものだけではありません。

ふと横を見ると、澄んだ瞳でまっすぐに私を見て笑っている愛犬がいます。

おじいちゃん猫はなでてあげると目を細めて気持ちのいい笑顔をします。

天気のいい日のアシナガバチは生命力にあふれ、機嫌のいいエネルギーを
私に向けてくれます。
羽化したばかりのテントウムシの悦びのエネルギー。

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このエネルギーは私にとっては笑顔のエネルギーです。

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咲いてくれたバラや新しい芽は笑顔のエネルギーです。


Miserable Day, Great Rainbow / Mr Phil Price


雨上がりの空にかかる虹

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きらきら光る海、さらさら流れる清流


Happy dreams sky / strawberryindigo


森を吹き渡る風 山にこだまする鳥達の歌声

すべてが自然からの笑顔のエネルギーです。

作ったものではなく、自然からわきだした笑顔のエネルギー。



私は思ったことがすぐに顔に出てしまうので笑顔を無理に作るのは
大の苦手です。

自分もそうだから作った笑顔はなんとなくわかってしまう。

顔は笑っていても目が笑っていない。

赤ちゃんや動物や自然の中から感じられるエネルギーに
つい笑顔になってしまうのは、そこには曇りのない瞳や、
偽りのない本当の笑顔のエネルギーがあるからだと思います。

だからこそ、私自身が本当の笑顔を向けられる人や物事に
真から心を向けて生きていきたい。

そう思って届けられた笑顔はきっとみんなにとって贈り物になると思うから。



Smiling Dogs / Kat Martin



_DSC2072 / Stu-bear



mudge lomo happy face / Puddin n Tang



breathe. / kelsey_lovefusionphoto


Smile Dogで検索して見つけた写真です。
この写真を探しているだけで思わず笑顔になっていました。


千尋のアニマルコミュニケーションサイト
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