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ダライラマ法王の来日法話レポート~2

4月12,13日と東京で行われたダライラマ法王の来日法話「般若心経・菩提心の解説・
観音菩薩の許可灌頂」を全国の映画館で生中継レポートの二回目です。

12日の午後の法話の中で、苦しみの本質(煩悩)についてのおはなしがありました。

「私たちは心の中に煩悩、苦しみの本質を持って人間の中に生れ落ちてきます。
 輪廻の中でそれを越えられるでしょうか。

 私たちは、魅力あるもの、素敵なものを誇張して捉えてしまいます。
 嫌なものを100%に捉えてしまいます。
 そして、素敵なものに執着や欲望を持ち、嫌なものに怒りや憎しみを持ちます。
 それは誤った認識、戯論(けろん)が生じています。」

「アメリカの心理学者のアロン・バックさんは、自分の心が怒りに満たされている
 クライアントは、強い怒りで完璧に嫌なものとしてとらえ、自分の心が97%
 対象物を正しく捉えていないと言っています。
 本当にひどい、本当に素晴らしいと、私たちの心の九割が誤って捉えているそうです。
 あたかもそれ自体が実体をもって存在しているかのように。

 空の見解が私たちの過度な執着や怒りを滅することができます。
 すべての現象がそれ自体の側から実体を持って存在していない、微塵も
 ないのだと感じられたら、すべての煩悩は克服できます。」

「空を理解する目的、本質は、心の欠点を正しく理解することです。」

「私たちの本当の敵は煩悩です。怒りや執着は欠点です。
 愛や慈悲の心を高めることが、すべての宗教で共通の修行とされています。
 
 無知~実体にとらわれる心のこと。
 智慧をはぐくむとは、すべての煩悩を克服すること。
 すべてのもののありようを知ることが、究極の「空」の見解です。」

「人間も実体性のとらわれることがなくなるように、涅槃に至る無我の見解、
 空の理解をして、自分の心になじませていくことが大切です。
 実体性にとらわれる心はなくなっていきます。」

これらのことはなんとなくわかります。
12日の午前中から、法王は私たちは苦しみの原因を自分の心で作り出して
しまっているとおはなしされていました。
その原因が、物事の本質を自分の都合のいいように誇張して捉えてしまって
いるからだということでした。

私もある人や出来事に対して勝手に期待してがっかりしたり、そのことで怒りを覚える
ことがあります。
でも、それはその人や出来事が悪いんじゃなくて、勝手に想像して
盛り上がって、期待通りにならなかったからと怒っている私が悪いんですよね。
でも、私の心は自分のことは棚にあげて、なかなかそれを認めようとしません。

このことを、ずばっと言われてしまって、ちょっと恥ずかしくなりました(^^;)
そうなんですよね。物事のありのままを見ようとしていなかっただけなんです。
よく話し合ってみたり、そのままの本質をきちんと見られていたら、そんなことは
なかったはずです。
わかってはいても、人は人生の中で何度もこの煩悩と執着を繰り返して、
何度も学ばなくちゃいけないんだろうなあ・・と思ったのでした。

菩提心の瞑想というのは、対象物の微細なレベルおける空を理解し、自我、認無我、
唯識に惑わされることなく、慈悲のうるおった瞑想をすることだそうです。

実在にとらわれる心をなくすことができ、心から他の人や動物への思いやりの心を持てる
ようになることが大事だそうです。

13日も宗教的な法話の中で、一切の命あるものへの慈悲の心への大切さについて
おはなしされていました。

「苦しみの源と無知の心を知り、空の見解の理解で無知を晴らし、一切の衆生
(うじょう)を苦しみから救いたいという慈悲の心が苦しみをなくせます。

 苦しみは煩悩であると理解すること。
 正しい智慧をはぐくみ、煩悩を弾圧し、利他への思いをつちかうと、
 自分自身への幸せの源をつちかえます。

 偏見に満ちていれば、敵のような人への怒りをもってしまいます。
 根本となる平等心をはぐくみ、すべての命あるものを平等とみなし、
 自分の心をおだやかにしましょう。」

その後、瞑想の仕方について色々おはなしされました。
それについては専門的な内容で、冊子がないと難しいと思います。
でも、瞑想の説明の言葉のイメージはきれいで、もっとゆっくり感じていたいな~と思いました。
こまかい映像のイメージを説明してくださって、頭に思い浮かべたのですが、
味わう前にどんどん進んでいってしまいました。
たくさん説明することがあって、通訳さんも忙しそうでした~。

最後のほうのメモに印象的な言葉がメモってありました。

「自分は一体どこにあるのか?
 自分の五蘊(ごうん)はどこにあるのかと考える。
 一切のものは実在しない。
 空の一点にとどまる。
 自分の心も実体性を持って生まれてきたのではない。

 自分の心について瞑想する。
 私たちも一瞬ごとに移り変わっている。
 意識も、一瞬、一瞬に依存して存在している。
 私たちの心は不生である。」


そして、死に直面した修行のおはなししてくださいました。

「自分を供物としてささげ、心をそっと天に飛ばしなさい。」

「死の兆候が現れたら、自分の財産、持ち物、周囲への執着をなくしていく。
 自分の体だけで、自分の体を天に向けていく。」

自分の心臓の位置にいる観音様を、自分の体の中から観音様とともに
天に飛ばすような感じだとおはなしされていました。
なんだか、怖いのではなくふわっと優しくあたたかい感じがしました。

「より粗い要素が機能を停止して溶け込み、すべての機能が停止するのが
 死です。死について考えて準備することが大切です。」

人には、心臓の位置に観音様がいて、それを自分の登頂にいるラマ(師)に
向けて飛ばすんだそうです。
それを飛ばしたり、心臓に戻したりする修行があるそうです(^^;)
ただ、飛ばすときには、頭にある泉門の穴から外に飛ばしてはいけませんよって
おっしゃっていました。
本当に天国に行くときには、その泉門の穴を開き、そこから天に飛ばすのだそうです。

「ラマのお心に観音様(自分の心)を転移させる、自分の意識が溶け込んでゆく。
 そして、来世に生まれ変わってゆくことは、特別と言われる。」

そして、本当に最後。

融合の修行

「ひとつの本質として解け合う。
 融合 死の光明の心が起きたという認識ができる。
 バルドであるという認識。
 あらわれてくる すべてのものを認識。」

~バルドとは

チベット密教などにおいて、輪廻転生において、死んだ後、次に生まれ変わるまでの期間を
バルド(中間状態、伝統的な仏教用語では、中有または中陰)と言う。最長49日間で、
再生する世界によってその期間は違う。

私はバルドとは、光の海の中に溶けていくような感じを受けました。
これが、本当にいろんなことを理解できたという認識なんでしょうね・・・
言葉では表現できない、大きくてあたたかい、本当にバルド(大海)とひとつに
溶け合うような認識に感じられました。

そして、ダライ・ラマのダライとは「大海」という意味だそうです。

ここまでおはなしされて、法王は「(灌頂を受けたならば)常に修行を続けることが大切。
修行を続けるためには、その方法をよく理解することが大切。理解するためには、
よく勉強することが大切」 とおっしゃいました。

予定の時間よりオーバーしていたので、にっこり笑って、「だから日本の列車はきちんと
時刻表通りに走るんでしたね」と冗談をおっしゃって、会場に笑いが起きました。

(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 の記事から最後の様子を引用させていただきました。)

友達のSさんに死ぬときに自分の心の観音様を頭の泉門から天に飛ばすことをメールで
お伝えしたら、こんなお返事をいただきました。

「赤ちゃんは生まれてきて暫くは頭の前にペコンって窪んだ穴があって、成長するに従って
自然にふさがっていって…私の子供達にもあったけど…ふとそれは、せんもんであって…
生まれ変わる時には穴が開いたままなのかなあって…想ったりしました。」

泉門のことを調べてみたら、赤ちゃんが産道を通ることができるように頭頂には泉門があって、
そのうち小泉門は生後一ヶ月で閉じて、大泉門は二歳ごろまでに閉じるんだそうです。

生まれてくるときにこの泉門が開いていて、天国に還るときにも自分の心が泉門を通って
還っていくのってとても不思議ですね。

天は魂が生まれてきて、また還っていくところなんですね(^^)

そう思うと、なんだかとてもいとおしく、心があたたかになりました。

私たちの命は輪廻の中でめぐっているんですね。大切に生きないと!ですね。

 

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